ボートレース界で“グレートマザー”と呼ばれている日高逸子さん。
突然の引退発表に多くのボートレースファンから惜しまれる声が聞こえてきます。
そんな日高さんは若い頃かなりの苦労をしていたんです。
この記事では祖父母に育てられた宮崎時代から上京の下積み、22歳での養成所挑戦、1985年デビューまでを一気にたどります。
日高逸子の若い頃のルーツと下積み

日高逸子 若い頃のルーツと下積みについて、原点のエピソードと努力の積み重ねをたっぷり深掘りしますね。
家庭環境と宮崎時代
日高逸子さんの若い頃の家庭環境は宮崎県串間市での祖父母との生活が中心で、地方ならではの人の結びつきに支えられた下積みが強い芯を育てたと感じます。
小学生の頃事故に遭った父親が職を無くしました。
その後人が変わったように酒癖が悪くなり、ある日母親が家を出て行ってしまいます。
祖父母の家で生活し、家計はかなり厳しかったようで、新聞配達をしながら家事もこなしていたそうです。
そんな苦しい生活から早く抜け出したくて上京してラウンジに務めながら必死に生活していたというエピソードがあります。
若い頃に上京し働きながら学ぶ
日高逸子さんの上京は新しい挑戦を求めた前進で、住み込みで働きながら専門学校に通う二足のわらじ生活でした。
仕送りを続ける責任感は自分の努力を誰かのために役立てたいという動機を強化し、勝利の重みを結果以上の価値として捉える視点を育てたと感じます。
筆者の感想として、学びと労働の往復で磨かれた時間感覚と対人スキルは、レースの駆け引きでも光る武器になったと胸が熱くなります。
募集CMで養成所挑戦を決めた理由
日高はCMで紹介された電話番号を書き留めると、ダイヤルを回していた。受験資格は年齢17歳以上、23歳未満。1961年生まれの日高は当時22歳。チャンスは1度しかなかったが「これにすべてを懸けてみよう」と願書に必要事項を書き、投函した。
「夏休みのある朝、母が消えた」父の暴力と貧乏生活…“ボートレース界のグレートマザー”日高逸子60歳が過ごした壮絶な幼少期(2/4) – 他競技 – Number Web – ナンバー
そんな苦しい生活の中日高逸子さんに突然転機が訪れます。
ボートレーサー募集CMと出会った瞬間です。
その時自分の努力を結果で語れるフィールドを直観的に見つけた出合いだったと捉えられます。
水上を切り裂く映像と選手の凛とした眼差しが心を射抜き、スピードと競争の世界で生きる覚悟を固め、22歳で養成所への挑戦を即決する決断力が際立ちます。
個人的には、映像の一瞬を人生の舵へ変える決断に惚れ込み、チャンスの種を逃さない視野の広さと行動速度にワクワクしますね。
日高逸子の転機とデビュー

日高逸子さんのデビューについて、養成所での学びから1985年の船出、初優勝に至る足跡をまるっと追いかけますね。
養成所生活で掴んだ手応え

日高逸子さんの最大の転機は、ボートレーサー養成所に合格してからの厳しい日常にありました。
当時は本栖研修所の時代で、体幹とスタートの感覚を叩き込む反復、艇の扱いと整備の基礎を何百回も積み上げる日々。
「男子に混じって当たり前に戦う」前提での鍛錬は、怖さよりも好奇心が勝つ性格と相性が良く、徐々に自信へ変わっていきます。
幼少期からの新聞配達や農作業で培った体力と規律が、ここで生きたのは間違いないと感じます。
現場では教官からの言葉一つひとつをメモして改善、スタート展示の微差を数値と体の感覚の両方で記録する“二刀流”の学び方も確立されました。
実際に本人は、幼少期の逆境を「負けず嫌いの原点」と表現しています。
貧乏生活……。そこから抜け出したいという気持ちが、私の負けず嫌いの原点です。自分の手で何かをつかみたかったし、誰にも負けたくはなかった
「夏休みのある朝、母が消えた」父の暴力と貧乏生活…“ボートレース界のグレートマザー”日高逸子60歳が過ごした壮絶な幼少期(2/4) – 他競技 – Number Web – ナンバー
こうした積み上げが、後年のフライング休みやスランプを跳ね返す粘りにつながっていく流れ、すごく人間的で胸が熱くなりますね。
1985年デビュー

日高逸子さんのデビューは1985年5月、舞台はボートレース芦屋でした。
プロの扉を開いたその年のうちに初勝利を挙げるスピード感は、養成所で磨いた基礎と勝負度胸の相乗効果だと感じます。
当時の女子レーサーは今ほど多くなく、男子に囲まれても臆さない存在感が“グレートマザー”の原型をつくりました。
後年の報道でも「1985年5月23日デビュー」と明記され、長いキャリアの起点として語られています。
初優勝までの道のり
日高逸子 さんの「初優勝」までの軌跡は、順風満帆に見えて実はアップダウン込みのリアルな物語でした。
デビュー後しばらくは好走と凡走が交互に訪れ、泣きたい夜もあったと伝えられていますが、そこで折れないのが日高流。
デビュー約1年5カ月で初優出、そして約2年2カ月で桐生の一般戦を初制覇というペースは、基礎の厚みと調整力の証明です。
年表ベースの記録では1987年5月に初優勝の記載が残っており、若い頃の努力が形になった瞬間。
この間にスタート勘の微調整やターンの荷重配分を見直し、展示から本番への“再現性”を高めていったそうです。
日高逸子のプロフィール

項目 | 内容 |
---|---|
名前 | 日高 逸子(ひだか いつこ) |
ニックネーム | グレートマザー |
生年月日 | 1961年10月7日 |
年齢 | 63歳(2025年8月22日現在) |
出身地 | 宮崎県串間市 |
支部 | 福岡支部 |
登録番号 / 期 | 3188 / 56期 |
身長 / 体重 | 154cm / 45kg |
血液型 | A型 |
デビュー日 | 1985年5月23日(芦屋) |
主なG1タイトル | 女子王座決定戦(2005年)、クイーンズクライマックス(2014年) |
通算勝利 / 優勝 | 2539勝 / 76V(引退時点報道ベース) |
通算獲得賞金 | 11億4400万3198円(女子歴代トップの報道ベース) |
近年のトピック | 2024年5月に通算2500勝到達、2025年8月22日に引退を表明 |
ほえ!?日高逸子さん引退😭!!!?
— AKI (@aki_dosu) August 22, 2025
レースも人柄も凄く好きだったからびっくりした、、、。
一度お会いしたことあるんだけど凄く気さくで楽しくて。本当に本当にお疲れ様でした!!!
グレートマザー日高逸子さん引退か。
— ゆきぽん (@bwmpdxqo735tyd) August 21, 2025
女子のレジェンド長い間お疲れ様でした。